Document参考資料
2022.09.13
その他
原爆慰霊碑前 座談会2017
黙祷
肥田:うちの親父の名前は、ここに新たに書き加えられるのですか。
岡崎:原爆慰霊碑には、書き加えられます。
工藤:当時の陸軍病院では、75%の方が亡くなられています。
記者:ここは、第二陸軍病院の近くですが、合同でこちらに慰霊碑があるのですね。
工藤:この慰霊碑は、第一陸軍病院のところに転がっていた門柱だと聞いています。
記者:場所としては、第二陸軍病院に近いのですね。
工藤:第二陸軍病院は、広島城の近くにありました。元々は、ここが本院で、第一は分院みたいな形でした。明治、大正時代には、衛戍病院と言われていました。肥田先生のお父さんは、兵隊がこちらに戻ってきた時に宇品から入るのですが、検疫所があり病気を持っていないかを調べておられました。腸チフスとかコレラとかありましたので、重要な役割をされておられました。
田中:初めまして、私は、岡山から来た田中と申します。肥田先生の上司をされていたさらいつねおというものの身内の者です。毎年、ここに来ています。本来ならば、父もここに来るはずでしたが、仕事があって来られなかったので肥田先生によろしくお伝えくださいと言うことでした。
岡崎:舜太郎先生は、岡山まで会いに行かれています。
田中:5年前の秋ごろ、広島の講演の帰りに来られました。私の祖母が、さらいつねおを少し知っているものですから肥田先生が、お話を聞きに来られました。
肥田:たまたま8月5日の夜、自分の担当していた診療所の子どもさんが、具合が悪いということで戸坂に往診に行っていたのです。そのまま、そこに泊まり込んで、朝、原爆に遭ったのです。爆風で飛ばされたみたいですが、こちらに帰って来ようとしたのですが、広島から逃げてくる人たちを見ると、とても市内には入れないと思い、また戸坂に戻って、そこで治療をしたそうです。
記者:先生は、どこにおられたのですか。
肥田:私は、中津川に疎開していました。父親の出身が、中津川だったのです。本家があったのです。
記者:もちろん、その時のご記憶はないのですよね。
肥田:生まれて1年もたたないのですから、ぜんぜんありません。
記者:今、おいくつですか。
肥田:72歳、今度11月で73歳になります。
記者:舜太郎さんが、亡くなられて初めて8月6日をここで迎えられるのは、どんなお気持ちですか。
肥田:本当は、国連の核兵器禁止条約が決議されたのですが、それまで生きていてもらえれば親父も喜んだのではないかと思います。その報告も兼ねてこちらに来ました。それが、1つの契機になって無くなるような方向に進めばいいなと思います。一昨年、父は、98歳でここに来ましたが、ここに来るのは、もう最後になるだろうということで一緒に来ました。向こうは、何度か行きましたが、この場所に来るのは初めてです。
記者:去年の8月6日は、舜太郎さんは、どこで過ごされたのですか。
肥田:家です。今年の3月にちょうど100歳で亡くなりました。
肥田:広島市内では、ほとんど入院はできなかったので、山口県の柳井市の病院で被爆者の治療を行いました。
肥田:私は、父親から直接、当時の話を聞いたことはなくて、父親がいろいろなところで講演したビデオを見たりして知りました。実際の被爆の状況は、家では話したことはありませんでした。父親は、ヨーロッパが中心ですが、35ヶ国で被爆の実情を話しに150回ぐらい講演して回っています。そういう話をまとめた本を見て知りました。
記者:この間、自分は生き残ってしまったという気持ちと、何もできなかったから、こんなことを二度と起こしてはいけない、そして被爆者に寄り添おうと思っていたとおっしゃっていました。それは、舜太郎さん本人が、そう言われていたのですか。
肥田:そういう明確な言葉では、言っていないですが、そういう気持ちは、ずっと持っていたのだろうと私は思っています。原爆の悲惨さを実際に体験したものとして、医者としては、治療することもできない、ただ死んでいくのを看取るだけというあの状態です。何も仕事ができない、何もできないけれど被爆者の思いには、ずっと応えていこうと思ったのだろうと思います。相談が、主だったのですが、被爆者の心の拠りどころとなって、少しでも役に立てればという気持ちがあったのだろうと思います。
記者:治療はできないけれど、内部被曝の苦しさなど、他の医者には言えないようなことが、舜太郎さんになら言えるということで、人が集まってきたのですね。
肥田:被爆者は、かなり差別されていたので、自分からはなかなか言い出せなかったのです。父親は、同じ被爆している医者だということもあっていろいろなことが話せたのだと思います。話すことによって自分が救われるというか楽になるということがあったのだろうと思います。
記者:そうですね。舜太郎さんが、担当されていた人たちは、北浦和の方に来られるのですか。泰さんのところに来られるのですか。
肥田:診ていますね。
岡崎:先生、基本的なことを聞きますが、アメリカは核を持っていたいわけですよね。核を使ったら地球上で住めなくなるところが増えたり、放射能で人間の体が壊れるということをいろいろな人が言っているのにアメリカは、持ち続けて、日本は、それを推進していますよね。
肥田:日米安全保障条約というのがあって、一応、アメリカによって守られているという構図になっているのですが、実際にアメリカが日本を守る気があるかどうかというのは、別問題です。今回も北朝鮮のことでいろいろありますが、ああいう事態をアメリカ本土ではなく、できれば日本でくい止めたいと思っているのです。日本に基地がたくさんあるのは、アメリカを守るためであって、日本を守るためではないのです。そこらを日本人は、誤解しているというかアメリカが守ってくれると思っているわけです。そこにアメリカ側の思いと日本側の思いのズレがあるのです。
岡崎:原爆を使ったら人類が困るということは、はっきりしているのに、それに代わるものがないのですかね。
肥田:代わるものを持っていることによって、アメリカからやられることを抑えたいという抑止力として核を使っているということなのです。しかし、今度の核兵器禁止条約によって抑止力というのは成り立たない構図になっています。他の国が核を持つことによって、核を持っていれば大丈夫だということはなくなってきたのです。そこが、昔の状況と今の状況の大きな違いだと思いますよ。
岡崎:でも実際には、北朝鮮がああなったら使うかもわからないというストーリーがあるわけですよね。
肥田:それをやったらもう人類が滅亡する可能性さえあります。
岡崎:そのことは、もうはっきりしているのではないですかね。
肥田:そうだと思うのですけれどね。
岡崎:核兵器を使えば、人類の住めるところがどんどん狭くなるのです。実際に放射能で、遺伝子を壊すのですね。
肥田:DNAをやっつけますからね。その人だけでなく子孫に影響を及ぼすわけです。
岡崎:DNAを破壊するということは、子孫に影響するのですね。
肥田:絶対に使うべきではないと思いますけれどね。
岡崎:そういうことがわかっていながら。
肥田:必ずしも分かり切れていないと思います。核兵器の恐ろしさが、まだ十分伝わっていないと思っています。
岡崎:それでは、広島の利用価値がまだまだあるのですね。
肥田:そうです。世界の人たちは、アメリカが核を持っているのは、そういう戦争が起らないために持っているのだと思い込まされているのです。
岡崎:それを実際に使ったら人類が不幸だということが十分わかり切れていないのですね。
肥田:ようやくそのことがわかり始めて、禁止条約が締結される状況になったのだと思います。国連加盟国の3分の2が賛成したということは、世界中の多くの人たちの指導者たちに、核兵器は、もう使うべきではないということが、ようやく理解され始めてきたのです。
岡崎:それも理解され始めたぐらいのものですか。
肥田:そうですね。あの条約もアメリカや核保有国は、他の国に対して賛成するなということで圧力をかけているわけですからね。
岡崎:日本は、アメリカを応援しなければいけないという立場なのでしょうけれど、参加もしませんでしたよね。去年まではどうだったのですか。
肥田:ずっとそうでしたよ。アメリカの顔色をずっと伺っているから、アメリカがNOと言えば、ずっとNOです。
岡崎:その前もずっとそうだったのですか。
肥田:ずっとそうです。国連の会議の中で、この問題が出た時に、必ず日本は、棄権するか、そういう会議には、参加しないということでした。
岡崎:このたび、棄権したことを日本人は、今まで以上に残念に思っています。
肥田:本当は、日本が先頭になって核兵器をなくすための運動をしなければいけないはずなのに、どうしてそういうことをしないのかということです。
岡崎:そのへんは、何が足りないからそうなるのですか。
肥田:国民の中に、日本は、そういうふうに動くべきだという考えがまだまだ足りないのです。
岡崎:それでは、泰先生が、まだまだしゃべり続けないといけないのですね。
肥田:親父に代わって、そういうことが少しでも理解されるようにやらないとだめかなと思います。
岡崎:舜太郎先生の本に原発の600m以内の人は、確実に影響があると書いてありましたが。
肥田:そこらについては、まだ確実な証拠が不十分だと思いますが、原発の周辺は、放射線の影響が出ているのは、間違いないと思います。数字の上で、他と比較して癌が多いというような実際のデータは、まだないので難しいと思います。ただ、アメリカのハンフォードとか核の研究所や核の実験施設の周辺は、住民が住めなくなるなどの影響が出ています。そういうことが、今までずっと隠し続けられてきました。アメリカがネバダで核実験をやっていたことがあるのですが、私は、ネバダの核実験場の博物館みたいな施設で当時の映像を写しているのを見ました。500m、1km、1.5km、2kmと壕を掘って、そこにアメリカの兵隊を並べておいて、爆発させてその影響がどうかということをアメリカはちゃんと研究しているわけです。爆発によって、そこにいた米軍の兵隊たちがどうなっているかというのは、調べてわかっているはずなのです。アメリカ軍なので、爆発させる前の健康状態や血液検査もやっているので、爆発させた前後でそれがどうなったかというのは、資料としてアメリカは、必ず持っているはずです。そういうものは、一切公表しません。それが、公表されれば、どういう形で遺伝子に影響を与えて、どう変化するかというのが、調べればわかるはずなのです。そういうことは、わかっていると私は、思っていますが、一切公表しませんから、どうすればいいのかということに答が出せないのです。
岡崎:日本でも少なくてもGHQがいた頃には、原爆を研究させなかったみたいですね。
肥田:今でも圧力がかかっています。
岡崎:今でもですか。その当時、原爆のことを研究した学生は左遷させられたとか、その研究をやめさせられたと聞いています。
肥田:間違いなく辞めさせられていますね。あの当時、京都大学が入って頭や骨のリンが燃えて死に至っているのだという研究論文を出したのですが、それも全部、没収されました。骨のリンが燃えて、作用して死に至る原因になったのではないかという論文を書いたのがあるらしいのですが、そういうのも全部、没収されています。東大の外科の…教授が広島に入って、どういう状況かというのを書いた論文も、そういうことは一切するなという圧力がかかって何もできなくなりました。
岡崎:内部被曝のことだけではないのですね。内部被曝を研究させなかったというのは、聞いていたのですが。
肥田:外部被曝についてもどんなひどいものかという報告は、一切できませんでした。原爆のことについて一切しゃべるな、口にするな、ものにも書いてはいけないという指令が出ていたのです。
岡崎:実際には、原爆に遭っていない人が、肉親を探しに来てという場合は、原爆手帳は交付されているのですか。
肥田:一応は、されていますよね。
岡崎:それは、内部被曝を認めているのではないですかね。
肥田:公式には、内部被曝はないというのが、未だに日本政府の見解です。現実問題として、入った人たちが直接被爆した人と同じような症状が出たということは、認めざるを得ないのです。矛盾しているのですがね。
岡崎:まだまだ広島が訴え続けなければいけないことがあるのですね。まだまだわかっていないのですね。北朝鮮なら政府がいろいろ圧力をかけているのは、わかるけれど、今の日本でも圧力をかけているというのが、信じられないですね。
岡崎:舜太郎先生が、ここの小学校に残られたことがあるのですが、命が大事だという話をここの子どもにされました。特に原爆に遭った方にも長く生きることが証になるのだということを言っておられました。原爆を受けた方が長く生きるというのは、どういう意味なのですか。
肥田:長生きをすることが、原爆の恐ろしさとか核を使ってはいけないということのプロパガンダになるということです。
岡崎:長く行き続けて、原爆はいけないと言いなさいという意味だったのですね。逆に原爆に遭ったけれど長生きできたんだというのでは、逆になりますからね。舜太郎先生は、原爆に遭われた方をたくさん診て、自分も放射能を浴びておられるでしょうけれど、研究をされて、長生きをされましたね。
肥田:被爆者の方に接して、少しでも実証したいと思ったのではないですかね。本人自身も原爆症のような症状が出たことがあって、その時に柳井の国立病院にいた当時の先輩の医者から、それは血液に影響が出ていることが考えられるから輸血をしなさいと言われて、その当時ですから、たくさんはできなかったと思いますが、輸血をしたことによって、自分の症状が改善して原爆症を克服できたと言っていました。今でいう交換輸血で、交換輸血というのは、ほとんど入れ替えるのですが、そこまでいかないにしても、それなりの効果が出たようです。それをやっていなければもう生きていなかったかもしれません。