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2022.09.13
その他
父、肥田舜太郎を語る
こんにちは、肥田舜太郎の息子の肥田泰です。現在は、さいたま市の浦和区で浦和民主診療所の所長をやっています。すでに70歳を超えていますので本来、退職はしているのですが、常勤の嘱託医という形です。埼玉県は、特に医者が少ないのでそういう形で現在も診療をしています。
私の父、肥田舜太郎は、1945年8月6日に、広島陸軍病院の軍医として勤務していました。たまたま前日の8月5日の夕方から、自分が担当していた小児科の心臓病の子どもが具合が悪いとその父親が陸軍病院まで連絡に来たので、自転車で6キロ離れた東区、当時の戸坂村まで往診に行きました。子どもの状態がよくならないので泊まり込んで子どもの状態を診ていました。明け方になって具合がよくなってきたので、その農家から8時過ぎに陸軍病院に自転車で向おうとした時に、原爆を見たのです。ピカッと光ったのを見たぐらいだったと思います。それで、すぐに爆風に吹き飛ばされたのですが、たまたまそこの子どもも両親にも大きな怪我はなく、助けることができました。陸軍病院がどうなっているかわからないということで、直ちに広島市内に引き返して行きました。
しかし、広島市内から逃れてくる被爆者たちのほとんどが、人間かどうかもわからない状態でした。目だけがぎょろっとしていて、ほとんど真っ黒で、皮膚はぼろきれのように爛れていました。こういう状態に人たちが次々と広島市内から戸坂に向かってくる中で、とても市内には入れない状況で、戸坂村に帰って、そこで被爆者の診療に当ったようです。実は、父は、広島で生まれています。父の故郷は、岐阜県の中津川市です。なぜか父親は、中津川で生まれたのではなく広島で生まれています。私の祖父が、麻布中学を出て東京商船、今の一橋大学を出て銀行に就職しています。それで、広島、神戸、大阪、横浜、東京と全国をあちこちしています。いわゆる転勤族でたまたま広島に赴任していた時に、広島で生まれたということです。広島とは、非常に縁が深かった人間だと思います。
父は、被爆者の治療に当ったわけですが、医者としては、何もできませんでした。その当時は、なぜこんなことになっているのか資料もないし、医学書も一切そのことに触れていないし、全く分からないという状態でした。そんな中でどうしていいかわからず、どうやっても助けることができませんでした。多くの人が発熱して、全身に紫斑ができ、目、口、肛門から血を流して亡くなっていきました。こういう事態に対して、できたことは解熱剤、アスピリンを与えたり、火傷に対して措置をするぐらいでした。実質は、看取るだけの医療をやっていました。
父は、陸軍病院に勤務していた状態であれば、その場で即死していたはずです。自分は生かされているのであるから、その命をどういうふうに全うするかというところで、私自身は、父は2つ考えたのだと思っています。1つは、こういう悲惨な状況を生み出した原子爆弾をこの地上から無くさないといけない、こういうことは二度と起こしてはいけないということが、第一だった思います。第二は、自分としては何もできないけれど被爆者に寄り添うことだけはできる、被爆者の苦しみ、被爆者の悩み、いろいろな訴えに耳を傾け、自分にできることは協力していこうと、ずっと考えていたのだと思います。それで、約6000人の被爆者の方々と会って話を聞きました。会って話を聞いただけで治療は一切できなかったと思いますが、話を聞くことによって、被爆者の心が幾分癒されたのだと思います。多分、被爆者の人たちは、自分の現状について、普通のお医者さんにいくら訴えても理解してもらえなかったでしょう。それから、周りの人たちに訴えてもなかなか理解してもらえないという状況の中で、同じ被爆者である父親に訴えることによって自分の苦しみ、悩みが幾分か癒されたのだと思います。そういう点で父親は、全国の被爆者たちの心に寄り添う活動を続けてきたのだと思います。
そう言う点で、父親は、自分の命を燃やし続けて、最後は100歳で亡くなりました。多分、自分のやってきたことに悔いはなかっただろうと思っています。非常に残念だと思ったのは、今年、国連で核兵器禁止条約が122ヶ国の賛成で決議されています。父親も国連に何度も出かけて行って、核兵器をなくすために国連としての役割を果たして欲しいとずっと訴え続けてきました。それが、実を結んだ形になったので、できれば、そのことを知った上で最期を迎えられればいいと思いましたが、自分がやってきたことの過程、一里塚が国連の決議という形で実を結んだのです。ただ、残念なことに日本の政府は、そこには参加していません。それから、核保有国も参加していません。こういう状況なので、これは核兵器を廃絶するための1つの通過点、過程であって、これからより多くのエネルギーをそこに注入しないと実際に核兵器をこの世からなくすことはまだまだ難しい状況だと思います。ただ、世界の122ヶ国の政府の人たちが、核兵器をなくそうという決意を示したということは、非常に大きなことだと思っています。
それから、私は、父がやったことの中で、1つの大きな意味を持つことは、内部被曝の問題について、ずっと訴え続けてきたことだろうと思います。これは、医師としての直感というか、感覚だったのだろうと思います。外部からの直接被曝という形でどんどん亡くなっていくことは、目の当たりにしましたが、実際に原爆が投下された時には、そこから遠く離れたところにいて、その後、広島市内に入って、そこで親族を探したり、後片付けをした人たちが、原爆に実際に遭った人たちと同じような症状で亡くなっていったのです。父親は、それは、直接の被曝とは関係なく、別の形の被曝があったのだとずっと考えていました。それが、内部被曝だということが、30年たって外国の人たちの研究なども含めて、ようやく確信を持つことができたのです。これが、父親がやった仕事なのだなと私は思っています。
もう1つは、核の持つ残酷さや悲惨さを日本だけでなく、世界の人々の前で語ってきました。35か37の国に行って、150回以上講演してまわっています。一番たくさん講演をしたのがドイツだと思います。ドイツは、チェルノブイリの被害を受けています。その中で原発も持っています。父親は、原発も含めて核と人類は共存できない、共存するべきではないと訴えました。福島の原発でも、あれを最終的に廃炉にするまで1万年から数万年かかるといわれています。そうするとその間に、被曝する人たちは、どんどん増えていくわけです。そういうことを考えると核と人類は、今、共存できる環境にないと思っています。それで、被曝した日本の国民の広島、長崎の教訓を話す中で、ドイツの人たちは、そこに思い至って脱原発の方向に向かったのだろうと思います。それに父親も少しの役割を果たしたのではないかなと思います。
核の問題は、内部被曝の問題が一番大きな問題としてあるわけです。私の医師としての個人的な感覚としては、内部被曝でDNAが傷ついても人間の体には、修復能力があるので元に戻ることもあり得るのですが、それだけでなく戻り切らなくて、いろいろな障害を起こしていきます。DNAがやられるということは、その子孫にもその問題が、引き継がれていくということになります。そうするとその世代だけでなく、私たち人類の何世代かにわたって、その問題がずっと引き継がれていくことになってしまうのです。特に癌や先天性の異常も含めて、大きな問題を後世に残してしまうということが1つです。
それから、私の医師としての感覚では、内部被曝は、人間の体の中に異常が起った時に、それを修復する能力があるわけですが、恐らくそこがやられるのではないかと思います。要するに免疫機構が一定の影響を受けるのではないかと考えています。ただ、これを証明することは、まだできていませんし、そういう論文もまだ出て来ていませんが、恐らく、そういうことが関係しているのではないかと私自身は、考えています。先ほどの原爆ぶらぶら病にしても、いろいろな検査をしても何も引っ掛かってこないのです。だけど体がだるくてしょうがなくて、仕事もできない、家事をやろうとしても体が動かないのです。周りから見ると、怠け者だと見られるのです。アメリカでは、こういう症状は、慢性疲労性症候群と言われています。それが、被曝と直接関係しているかどうかはっきりしたところはないのですが、同じように体の中の異常がそういう症状を起こしています。これは、今の段階では、検査をしても引っ掛かりませんが、そのうちいろいろなことがわかるようになってくると思います。人間の体に備わっている修復能力を壊していくことが、核兵器の恐ろしいところだと思います。
これも確実に結論が出ている問題ではないのですが、福島県の原発の事故の後の福島県の子どもの甲状腺癌の問題があります。これは、日本の他の地域と比べて実際にどうなのかといういろいろなデータが、まだ集積されていないので確定的なことは、言えませんが、数だけ見れば、やはり異常だと思います。数年間の間に150人ぐらいの甲状腺癌の子どもが見つかっているということは、どう考えてもおかしいと私は、思います。これは、他の地域の子どもたちの集団検診でエコー検査をやって、そこと比べてどうなのかという実証がないと最終的には、結論は出せないと思いますが、数字だけ見ると、子どもでこれだけ甲状腺癌がいるのかという正直な感想です。
アメリカで国際会議MPT核不拡散条約を長期にわたって継続しようという論議が行われた時に、私は、ニューヨークに一度行ったことがありますが、その時にネバダ州の核実験場に行ったのです。今は、もうそこで核実験をやっていませんが、博物館があって、そこで核実験の状況がどうであったかという様子を上映しているのです。その時に、私が非常に衝撃を受けたのは、爆発させる場所から500m、1km、1.5km、2kmのところに壕を掘って、そこにアメリカ軍の兵隊を並べて、爆発させてその軍人の人たちに影響が、どう出るかということを調べているのです。これは、人体実験です。軍隊を使っていますが、私は人体実験だと思います。その時の資料をアメリカは、持っているわけです。それぞれの距離で離れたところにいて被曝したアメリカの軍人たちが、どういう影響を受けたのかということは、資料として持っているはずです。軍人ですから、被曝する前の血液の検査とか健康調査をちゃんとやっているはずです。被曝した後の調査もやっているはずです。そのデータを分析すれば、被曝によって体の中にどういうことが起きるのかわかるのです。今までは、臓器のレベルぐらいまでしかわかりませんでしたが、今は、細胞レベル、分子レベル、遺伝子のレベルまで解析できる時代になっているので資料さえあれば、きちんと解析できるはずだと私は、思っています。その時に、アメリカは、その資料を一切公表していません。
広島と長崎にABCCという施設がありました。被爆者を治療しないで、ただ連れて来て被曝した人たちの血液やいろいろな検査をして、資料だけを持って帰っていました。ここからもアメリカには、いろいろなデータが集積されているはずですが、これもほとんど発表されていません。こういうことが、発表されれば、被爆者の医療にとって非常に大きな示唆があるだろうと私は思っていますが、一切公表されていません。アメリカは、自分の国の兵隊もモルモット代わりに使っているわけで、広島、長崎についても原爆によって人間にどういう障害が起るかということを調査して、分析しているはずです。だけど、それを一切公表していないので、ここに一番大きなアメリカの欠点があると思います。これは、世界の声を集めて、アメリカに公表させるべきだし、圧力をかける必要があると私は思います。これからも原発事故とか核戦争が起る可能性も否定できない状況になってきているのです。アメリカの中でも軍人もそうですし、核実験場の周辺は、癌が多発して、人が住めない状況になりつつあると言われています。そういうことも含めて、アメリカの中にも被爆者は存在していて、そういう人たちには手を差し伸べる必要があるわけで、アメリカが持っている資料を公表させようという運動を全世界で起こしていかないといけないと思っています。私の父は、そういう意味でも被曝と正面から向き合って、一生かけて運動してきた人だと思っています。
もう1つの父が残した功績は、後継者をつくったことだと思っています。世界各地で被爆の実態や自分の考えを話して、核兵器を無くさなければいけないと思う人たちをたくさんつくり上げてきました。これが、肥田舜太郎のもう1つの功績だろうと思っています。自分一人だけでいくら叫んでもなかなか前進しません。自分と同じような思いを持つ人たちを日本の中にも世界の中にもたくさんつくりだすことが必要であると考えていました。3.11の福島の原発事故の時も福島の子どもを持つお母さんたちから、たくさんの講演依頼を受けています。その時には、父はかなり高齢になっていて足腰も弱ってきていて、体力的にもきつかったのですが、そういう依頼は、一切断りませんでした。出かけて行って話をしました。父は、話している途中に自分が倒れても本望だと思っていたのだと私自身は、思っています。晩年は、外国に行って話をすることは控えてくれと私は言いました。日本の中でなら、どこに行っても何とかなるから日本の中で講演するのは、体力が許す限りやってもいいけれど、外国で倒れられたら、こっちも大変なので、外国では控えてくれという話はしました。日本の中でなら、自分の体力が続くと思えば、そういう話をしてもかまいませんよと言ってきました。
私の父は、家の中で私には一切、被爆の惨状を話しませんでした。私が、それを知ったのは、父が講演しているビデオを見たり、父が講演している現場に一緒に行って話を聞いた時でした。そういう話を聞くことで、父がどういう思いを持っているのかということを間接的に知りました。父親から、核兵器を無くす運動を一緒にやれというようなことを私には、一切言いませんでした。私に医者になれということも言いませんでしたが、父の後姿を見て医者になりました。父には、医療の中にお金による命の差別を持ち込んではいけないという考えの基礎がありました。診療所の中で活動している時に往診の依頼は、一切断っていません。埼玉県の行田というところにいた時には、往診の手段は自転車です。最初は、自転車で看護婦さんを荷台に乗せて鞄を持って往診していました。町の中を往診して、自転車で走り回っていました。その次が、ラビットという小型のバイクです。その後が、250か500ccぐらいのモーターバイクです。その次が、ダットサンで往診していました。1961年に国民皆保険になるまでは、医者にかかる時には、現金を持っていないとかかれない時代でした。健康保険というのは、ほんの一部だけありましたが、ほとんどの人は、お金で診療していました。その中で、お金のない人は、あとでいいよと言っていました。それから、診療代の代わりに玉子を持ってくる人、野菜を持ってくる人、お米を持ってくる人たちがいました。それを受け入れてやってきていました。そういう父の姿を見て、私も人の役に立つ医者になりたいと思うようになりました。お金によって命を差別するような医者にはなりたくないという思いがあって医者になりました。
私は、東大の医学部に行ったのですが、私が医者になる直前には、大学紛争の真っ最中で私の医学部は、1年半ストライキをやっていました。今は、考えられないでしょう。1年半ストライキをやったら、両親から、そういうことはやめて、はやく授業を受けろと言われます。ストライキをやっていても学費は払わないといけないのですからね。学費は免除ということにはなりません。そういう時代でした。私自身は、大学の教授を中心としたピラミッド体制、白い巨塔といわれるものにものすごく反発を覚えていたので、大学には残らず、外に出て医者としての仕事を始めました。父の後姿を見て、私自身も住民のためになる医者になろうということで、この間、ずっとやってきました。
私の中では、日本の医療制度はいい点も悪い点もあるのですが、社会保障の体制を充実させていかないとお金のない人は、益々、病気になり苦労しなければいけない時代になってきます。お金がありさえすれば、どんな高度な医療でも受けられるというアメリカ型の医療は、日本ではやめた方がいいというのが、私の考え方です。アメリカは、お金さえあれば、移植医療や遺伝子医療など高度な医療といわれるものも受けることができますが、4000万人ぐらい無保険者が存在していて、この人たちは医療からは、ほとんど阻害されているという実態があります。日本は、国民の医療に関しては、何とかすべての国民を網羅する医療体制ができています。それが、今、かなり厳しい状況になりつつあると思っていますが、そういうことも含めて、国民の命を粗末にするような状況は、無くしてもらいたいというのが、私の考え方です。被爆者の問題、これから問題になるであろう原発の問題も含めて国民の命を大切にする気風を日本の中につくり上げていければいいかなと思っています。それは、父の思いとも通じるのであろうと思っています。
父親は、医者になる前は、早稲田大学理工学部の建築学科に在籍していました。それは、祖父が、その理由はわかりませんが、なぜか医者にはなるなと言っていたのです。それで、早稲田大学の理工学部に行ったのですが、どうしても医者になりたいという思いが断ち切れなくて、日本大学医学部に編入学しています。今は、そういう制度はあまりないと思うのですが、早稲田大学の理工学部から日大の医学部に編入学して医者になっています。当時は、太平洋戦争の真っ只中で大学を1年間、繰上げ卒業させられて陸軍に召集されています。ほとんど医者の勉強らしい勉強もせずに軍医として召集されたという状況でした。陸軍の軍医ですから、サイパンとかレイテにも行く可能性があったと本人も言っていました。ただ、どういう状況かわかりませんが、それを逃れています。もし、そこに行っていれば、みんな玉砕ですから、多分、死んでいたのだろうと思います。広島でもたまたま往診に行っていて、直接の被爆からは逃れられたのです。自分は、3回死を逃れたと言っていましたので、これは非常に珍しいケースだと思います。そういうことがあって、自分の命を賭けて核兵器を無くすことと被爆者に寄り添うことを一生の自分の課題にして、その課題のために突き進んできたのだと思っています。ただ、父はかなり楽天的なところがあり、それを悲壮な思いでやったというふうに私は受け止めていません。ある意味では、それを自分の使命として受け止めながら、楽しみながらやっていました。使命感に燃えて、悲壮な思いでやったというふうに私は受け止めていないので、父の性格は、ある意味で楽天的であったのだと思います。私自身も、そろそろ73歳になりますので、最後になると思っていますが、父の遺志を継いで、私のできる限りのことをしたいと思っています。核兵器を無くすことと、被爆者の方もご高齢になってきたので、そのうち被爆者と言われる方々が、世の中からいなくなる可能性もあるのですが、広島、長崎で被爆した人たちは多くなくなってくるので最後まで見届けてあげたいと思っています。
私は、全日本民医連の会長もやったのですが、全国の民医連の医者たちの中にも被爆者医療を担当する医者も10名ぐらいの集団が出来ています。そういう人たちが、被爆者に関わっていろいろな活動をこれからもやっていってくれるだろうと思っています。そういう点で、被爆者に関わる医療の問題で、この間の全国の被爆者の集団訴訟は大筋勝利しています。その中で
民医連の医師団が意見書を出しています。それが、この裁判の勝利に大きな貢献をしています。それまでの厚生労働省の見解をことごとく打ち破ってきたと思っています。厚生労働省側は、DS86内部被曝はなかったとかいろいろな根拠をつくって被爆者医療の制度の認定に該当するということをことごとく跳ね除けてきた歴史を大きく覆したと思っています。ただ、まだまだ限界があって、国の壁は厚いと思いますが、被爆者にもっともっと寄り添うような制度が国の中でできていけばいいと思います。
質疑
現実問題として被爆に関わっている医者が、日本では圧倒的に少ないのです。広島や長崎では別だと思いますが、全国各地を見ると少ないのです。例えば、埼玉県で私が診ている被爆者の数は、50人を下回ると思います。毎年、4月と10月に被爆者の健康診断をやっていますが、それもだんだん数が減ってきています。50人いくかいかないかの状況だと思っています。それで、被爆者と直接、接することがほとんどないということと、そういう問題にあまり関心を持たないようにしている側面が、医者の中にはあるのかなと思います。核兵器に反対する医師の会が全国にありますが、日本の医師の総数からみればおそらく何十分の一だと思います。その人たちの数を増やしていく必要があると思います。原発問題も含めて医者や医療が関わる面が、これから出てくると思っています。大学でそういう講義はまったくありませんし、放射線被害についても大学では、ほとんど講義されない現状があるので、そういうことに関心を持つ医者がまだまだ少ないと思います。私たちの努力不足もあると思いますが、そういうことに配慮しなくても生活していける状況が、医者の中にはあるのではないかなと思っています。
「表題に福島、チェルノブイリと出ていますが、チェルノブイリに関して、IPPNWなどの医者の団体が、実際に現地の被災者に対して、何か支援をするなどの動きはありましたか。」
長野県の諏訪中央病院の鎌田先生たちのグループとか、医者ですが、今の松本市長が、チェルノブイリのことに関わって調査団も出していますし、毎年、支援もしています。私たち民医連のグループもイラクの劣化ウラン弾による子どもの被害に対して現地に医薬品を送る活動をしています。まったくそういうものがないわけではないのですが、あまり報道もされないし、そういうことに関心のある医者は、まだまだ少ないのが現実です。現実には、やっている人たちはいます。
「チェルノブイリ事故以来、鎌田先生、小池先生たちと未だもって現地で私たちもやっています。残念なのは、広島に反核団体があり、反原発団体がたくさんあるにも関わらず、そういう活動をほとんどやっていないのです。広島市もそうです。」
情報社会なので、そういう人たちがトラックを組んで様々な活動ができればもっといいと私自身も思っています。
「現地に行くと広島というと海外ではものすごく期待するのです。帰る時には、手紙を渡してくれとか言われるのですが、動いたことがまったくないです。それが、非常に残念です。」
「結婚差別ということでうかがいたいのですが、私は、昭和25~6年ごろにABCCに検査に行ったことがあります。ジープが迎えに来て、向こうで全員裸になって前後の写真を撮ったり、いろいろな検査をしました。その検査の結果は、何も言って来ないし、当時の新聞では、人間のモルモット扱いではないかということがあって、子ども心にもそうだと思いました。次も検査をしますかと聞かれたので、それを拒否したら、それから来なくなりました。私自身は、昭和9年生まれですが、広島に来たのは昭和22年で入市被曝の基準からも外れた普通の子どもということで、被曝した子どもと、その他の子どもと比べるために選ばれたのではないかと後から思いました。入市被曝といっても何日以内に入ったとか、数百メートル以内とかのある基準の中での入市被曝ということです。黒い雨に打たれたという人もいるので、基準の置き方によって入市被曝というのは、ずいぶんたくさんあるのではないかと思います。東京の方では、広島の人と結婚すると言ったら、原爆を受けているのではないかということで、拒否反応があって断られるということがありました。まして、親が被曝しているということになると差別を受けることが多いと思います。工藤先生のお話でも短くても被曝の影響があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。」
国としては、一定の基準をつくらなければならないということで、基準をつくっていますが、実質的には、被爆者はもっと多いだろうと思っています。どこをどうやって基準をつくっていくかというのは、国との関係で交渉とかあると思うのですが、本人が黒い雨にあったことがあるとか距離以外の問題でもいろいろ条件というものがあるはずです。あと体の状況も含めて、本人が原爆症を疑う場合には、最大限そのことに考慮することが私は必要だと思います。そのことをどの辺りまで国として認めるかというのは、なかなか難しい判断だと思います。私の考えは、できるだけ多くの人たちをその対象に含めるべきだと思います。その人にどういう補償をしていくかということについては、その状況によって判断していく中身だと思っています。すべての人に同じように同じことをというのではなく、その条件に従って、いろいろなレベルがあるのでできるだけ門戸を広げて、一定の条件をつけていくことが必要なのではないかと思っています。そこらは、国としての姿勢の問題です。国は、できるだけ門戸を狭くしようとしています。私自身は、もっと門戸を広げた上でその人の医療の保障とか生活の問題を組み合わせて考えていくべきだと思っています。結婚差別の問題については、そういう状況が起るので、被爆した人たちはなるべくそのことを隠そうとするわけです。それは、ある意味で止むを得ないというか、世間の風潮に対して自己防衛をせざるを得ないところがあろうかと思います。本来なら、堂々と被爆したのだということを明らかにして、その上で自分が愛する人と結婚できるような状況をどうつくるかということが鍵だと思いますが、それを個人の問題に還元することは、なかなか難しいと思います。社会全体が、変わらないとそういう思いを無くすことは難しいと思います。それには、まだまだ年月がかかりそうだと私は思います。
「ABCCは、調査はするけれど治療は一切しなかったということですが、もしそこでABCCが治療と調査を併用したとしてどの程度の調査データの誤差があったのでしょうか。ABCCに行った人は、自分でお金を払って受診して治療をしていたと思うのです。実験の純粋な結果として、ABCCは治療をしない方がいいのかもしれませんが、仮に治療していたとして結果にどの程度の誤差が出たのかなと疑問に思います。」
それについては、何とも言えないと思います。正直に言って治療をして治るというものではありません。もちろん治る病気もあるとは思いますが、実際に原爆によって起った現象だとするとそれを元に戻すことは、今のレベルの医科学ではそこまで到達していません。将来的にも到達する可能性は、非常に少ないと私は思っています。ただ、被爆者が癌になりやすい傾向にあることは間違いがないので、その時にちゃんと検診をして、癌になったとしても早めに対応することは可能なので、そういうことはやるべきだと思います。実際にABCCが治療をやってうまくいったかというと、それはないと思います。ただ、問題は、あたかも治療するかのようなふりをしてサンプルだけを集めて、国に持って帰ったことなのです。そして、調査の結果については、日本には何も公表しないということに一番の問題があるのです。検査をするならするで、ちゃんとこういう目的で検査をすると伝え、結果をちゃんと公表していれば、詐欺だとか何とか言われなくてすんだのだと思いますが、そんなことはしていないのです。ただ単に集めてサンプルだけ持って帰って、自分の国で状況を分析し、その結果については公表しないというのは、あるべき姿ではないと思います。治療したら効果があったかというとそれは、わかりません。そこでやるべきことは、病気になる可能性が高いので1年に1回、ちゃんと検診をやりなさいとか、その体制を市や国が補償することです。今は健康診断を4月と10月にやっているので癌の早期発見には貢献していると思いますが、そういうことをもっと早くからやるべきだったと私は思っています。
「データを現地から持って帰っていて、まったく信頼関係が断たれています。広島が専門化レベルで衰退化していく大きな原因だったと思います。広島の人は、盛んにABCCは治療をしなくて検査だけしたと言いますが、それは違います。セミパラチンスクで同じような状況が起きて、衰退したのは、地元の医者たちが反対したのです。そういう状況が、広島にもあったということは、ほとんどの方がご存知ありません。」
私が、問題だと思っているのは、日本の医者たちがいろいろなことをしようとした時にそれをアメリカが全部やめろという指示を出したのです。京大や東大の医者たちが広島に入って調査しようとしましたが、それを全部、抑え付けたのです。発表させなかったのです。日本の医者の中にも活動した人たちはいたのだけど、それは全部、上から抑え付けられて活動できなくなったのです。そこに大きな問題点があったのかなと思います。日本の医者が、何もしなかったということではなかったと思うのですが、実質的にはやろうと思ってもできなかったのです。
「一番典型的な例は、日常的に患者さんを診ている開業医は、7年間アメリカの占領下にあったのですが、終戦と同時に被爆者のデータをGHQに取引して手渡したという事実もあったことを忘れてはいけないと思います。」
岡崎「原爆は、ひどいものだということを隠して、アメリカは核を持っていますが、そういう状況の中で、日本政府はそれを顕示するようなこともあると聞いています。放射能は、DNAを傷つけて子孫にまで影響を残すと聞いています。そのへんを皆さんにもしっかり理解してもらい原爆を持たない世界になるように我々も勉強していきたいと思います。」
医師 肥田 泰