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2022.08.08

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父の原爆体験記

父の原爆体験記

平成十八年十月父が亡くなり遺品を整理していましたところ一冊の古いアルバムが出てきました。その中に一枚のセピア色の写真を見つけました。写真の説明に「昭和十九年五月中旬第八号病室中庭二於テ愛犬ヂョンヲ連レテ」と記述がありました。この写真は子供のころ見た記憶があり暫く見つめていました(*1)。 おぼろげに父が広島陸軍病院で被爆した事は知っていましたが家族の誰にも詳しくは話してはいませんでした。 文語体で書かれた日記も見つかり被爆者の父を自分は何も知らなかった、 湧き上がる後悔から父の軍隊時代を調べようと思うようになりました。

 

昭和二十年八月六日午前八時十分頃世界最初の原爆が広島に投下されました。原爆投下時間は公式には八時十五分となっておりますが、 その時刻を否定する文献もありますのでここでは八時十分頃と記述します。 原爆炸裂で爆心より半径ニキロの建造物は全壊し昭和二十年末までに推計十四万人の人々が亡くなりました。 原爆炸裂以後に入市した人も二次被曝により長年経た後も後遺症に苦しみつづけています。

 

私達は広島、長崎の原爆投下後のキノコ雲はよく映像で見かけます。又このキノコ雲の直下で殺裁が行われた事実を述べた多くの体験記はありますが、 然し 爆心地から近距離で被爆しながら被爆者の救護にあたった医師からみた体験記は非常に少ないと思います。

 

父は大正四年三月八日に広島県福山市藤江町の寒村で生まれました。 幼少時から神童と謂われていたようで医者になる宿命をもって京都市にある京都府立医科大学予科に昭和九年入学しました(*2)。 戦前の官公立大学(医学部、医科)には内地に七校、 外地に二校の九帝国大学と京都府立医科大学をはじめとする七校の医科単科大学がありました。 父が何故京都帝国大学を受験しなかったのか、 又何故京都府立医科大学に進学したのかは今では分かりようもありません。

 

昭和十六年三月に同医科大学を卒業(*3)(*4)、 内科医師として京都第一陸軍病院江波分院に配属されました。 出征を目睫の間に控えて京都市伏見区の自宅前での記念写真が残っていました(*7)。入営後は見習士官教育と並行して病棟付医師として兵隊の診察を行いました。 昭和十八年九月見習士官室前の父の写真を見ますと九八式夏用軍衣袴に曹長の襟章、衛生科 (深緑色)の山型の胸章そして左肘には准士官用週番章が認められます。 既に将校用の九八式軍刀を帯刀しています(*8)。

 

広島陸軍病院の歴史は明治初頭、 国軍創設にあたり「広島鎮台病院」が広島城内に設置されました。のちに城外西方の太田川畔基町に移されてから「広島衛戌(えいじゅ)病院」と改名され、 大正時代を経て、 昭和十二年「広島陸軍病院」と改称されました。同年七月に慮溝橋事件の発端で支那事変が勃発した為、基町の旧陸軍幼年学校施設に開設された基町分病室そして西練兵場及び江波・三滝(打越町)の地に江波分病室、三滝分病室の病棟が増設されました。当初これらの病棟を「分病室」と呼んでいましたが、のちに「分院」と呼称されました。

 

父の日記に入営時の様子が以下の様に記述されていました。記述は全て文語体になっていますが、当時病床日誌、病歴書、病況書等の記述は全部文語体でなされ医学研究発表も文語体を交えて口述されていたのでこれが父の嗜好に合っていた様で日記の全部を文語体のまま掲載しました。その時々の心境は語句に影響し、語句はまた心境に反映しますので強いて口語体に直せば原意を離れてしまい父の思いは別の印象を与えてしまいます。判読困難さが残りますが文語体のまま記載しました。

 

【昭和十八年七月二十一日(水)晴後雨】

遂に入営後の第一夜は明けたり。遅く起床す。終日、無為にバラック建兵舎に時を空過す。板堀の中で外出もならず、宛然獄舎(えんぜんごくしゃ)の観あり。外界の恋しきこと限なし。時に来し方を想ふ。今月初旬、否昨日までは、現在の如く、此慮広島陸軍病院江波分院の一室に、枕頭、磯の香に包まれて起居するに至らんとは誰が予期し得たるや。真に人の運命は一寸先も分らぬものなり。又時に同僚と談を交ふ。かくの如く同一兵舎に生活を倶にすることになれば同じ釜の飯の連帯感に依るものか、初対面の同僚とも、十年の旧知の如く胸襟を披きて談笑し得るは不思議なり。談は先づ、将来、各自の配属地のことに及ぶ。内地に滞り度きは人情の常なるも、現下の戦局よくこれを許すや否や、我々の生殺与奪の権は一に上官の掌中に在るのみ。午後油然(はいぜん)として雨ふる。終日止まず。雨の時は皆多くを語らず。沈思黙坐の状あり。胸臆に出来するのは如何の情ぞや。故山を守る父母妻子の事か。自己の将来の運命か。嗚呼、すべてを忘却するにしかず。 早くこの環境と生活とに順応すべし。

 

広島原爆戦災誌には昭和二十年二月当時の広島第一陸軍病院江波分院の見取り図(*9)が載っていました。父が日々診療にあたっていた十五号病棟、十九号病棟もそして軍用犬ヂョンを連れた写真の八号室中庭の場所も明白に判明して来ました。

 

昭和十八年七月二十日の入営から昭和二十年四月三十日まで父は広島第一陸軍病院江波分院での勤務で多くは南方戦線から帰還したマラリア感染の患者、栄養失調症の患者を診ていました。 今日では消化器内科で行われている内視鏡検査も神経内科で行う髄液検査も行い全ての領域の患者を診ていました。また当時は不治の病と謂われていた隔離病棟の結核感染症の患者をも診ていました。

 

昭和二十年五月一日に宮内大臣から「正八位に紋する」(*10)の指令を正式に受けて陸軍少尉に任命されました。 おそらくこの日付けで木谷祐寛軍医大佐と共に広島第二陸軍病院本院に転属となったと思います。

 

昭和二十年四月九日に軍医少尉の任官を命じられ江波分院で桜花を背景にとった写真が残っていました。服は三年式軍衣袴で襟章の下部に衛生部を示す深緑色徽章と袖には尉官を示す1本の線章と少尉を示す1つの星章が認められます(*11)。

 

昭和二十年五月、本土要撃作戦に備え、本院・分院の隷属ならびに患者収容区分が改編されました。すなわち、広島第一陸軍病院・広島第二陸軍病院・大野陸軍病院と三分され広島第一陸軍病院は中部軍司令部の直轄となり本院を第二分院施設に置かれ広島第二陸軍病院は広島師団の直轄となり、広島各部隊の傷病兵の収容を主任務としました。広島第二陸軍病院本院は広島市基町の中国軍管区司令部があった広島城郭一帯の北西部に位置し太田川に隣接して建造されていました。病院は爆心地から僅か北方八百メ一トルの距離しか離れてはいませんでした。広島第一陸軍病院江波分院から広島第二陸軍病院本院に転属になり戦局も日々悪化し日記の記載も殆んどなくなりました。当時の広島第二陸軍病院の表門(*12)、第十三号病棟の絵ハガキ(*13)が有りました。父は十五号病棟で入院患者を診察していました。その広島第二陸軍病院本院の見取り図(*14)も各室説明図(*15)も広島原爆戦災誌に掲載されていましたので引用して掲載しました。

 

以下に被爆前日と被爆当日、文語体で書かれた日記の文章をそのままに掲します。 現代文に変えますと実際の凄さが伝わりませんので判読に困難さが残りますが原文のまま掲載します。

 

【昭和二十年八月五日(日)晴(被爆前日)】

午前中、例の如く、偕行社診療所に至る。日曜日にて外来稀なり。昼食は診療所にて代用食うどん一椀を食す。 以外に美味、量多く満腹す。

 

夕刻偕行社に於て、診療所職員一同として、田中少尉送別会開催の約あり。五時半再度偕行社に赴く。会する者、賓客田中少尉を中心に成川中尉殿、歯科医師吉川某、神舎、古本、山田の三看護婦と自分の七名なり。田中少尉は某部隊に転属なり。君とは入営以来、離合集散甚しき中にも、常に相携へて行を倶にせし者、肝胆相照す仲なり。今夕を以て手を分たんとす。 我胸中、転た落莫悲愁の情なきを得んや。席上酒あり。その量二升有余。珍重すべきこと、滴一滴すべて玉液に等しと言ふべきか。看護婦諸娘は、殆ど酒を嗜まず。酒宴半にして、談偶々時局に及ぶ。戦況、日々に非なるを嘆じ、窮極は悲観論に傾く。大日本帝国陸軍将校として死に処するの道を説くのみ。田中少尉は日く、一死国難に殉ずるも、一つの道なるも、我々の真の生命は医師にあり、これより先、なすべきこと多々あり、死を急ぐべからずと。一同うなずく。宴終りて、成川中尉殿の自転車の後に乗せていただき本院に帰る。正に午後八時なり。時に本院娯楽室に於ては、木谷院長殿主催の下に、時局柄最後の尉官級将校の慰労宴が、急逮開催されて居り、院長殿はわが不在を尋ねて居られし由、 井上婦長より聞く。 しかし酔歩踊躙(すいほまんさん)、 院長殿の前に醜態を晒すべからず。 他日、 事の顛末(てんまつ)を述べて陳謝すれば足るべし。 十五号病棟医官室にて寝に就く。

 

九時過、 空襲警報発令。 爆音、 高射砲音を遠くに聞く。 暫時にして解除。

 

【原爆投下当日、昭和二十年八月六日(月)晴】

七時目覚む。営庭の樹梢既に蝉声盛なり。七時半警戒警報発令。少時にして解除。八時、例の如く、朝礼のため看護婦を部屋に集合せしむ。総員十五名整列を終りし頃、突如頭上に烈しき敵機の爆音を聞く。警報解除後何事ぞと皆、いぶかりつつ、天の一方に耳をそばだつ。正にその時、怪光一閃(かいこういっせん)、眼眩く光芭(こうぼう)遍(あまね) <天地を覆ふ。是は容易の事に非ずと察し、一歩部屋を踏み出でんとせし時、一大轟音と共に、天井、四壁、瞬時に落下倒壊、忽(たちま) ち、眼前暗黒となり、重圧は身幹四肢末端にまで及び、微動すらなし得ず。嗚呼、俄然、我身は倒壊家屋の下深く埋もり了(おわ) りしなり。暫し茫然自失、なす所を知らず。栓桔(しつこく) の欣、死を予期するのみ。

 

四辺、げきとして声なく、既に死の静寂あり。落莫(らくばく)たる孤独感が身に逼(せま) る。故山の両親、妻のことが慌しく脳裡を過る。過去三十年に満たぬ我生涯は、果して何なりしか、何をなし得たるかを想ふ。 しかし人生、断ち難きは生の執着と死の恐怖なり。先に白熱光を放ちたる投下物は、必ずや発火物なるべく、家と共に徐々に煙に侵され、寸一寸、尺一尺と生身を焼かるる苦痛を想像すれば、不安頓(とみ) に萌し、焦慮(しょうりょ)更に甚しく、恐怖の情その極に達す。死力をつくして、ここを脱せんと図る。 宛(あたか)も蝉のもぬくが如く、 四肢末端より自由を獲んと力む。悪戦苦闘、幾刻を経たるにや、遂に全身の自由を獲たり。これに勇を鼓して上に向ふ。時に上方わずかに微光を認む。暗夜に燈火、歓喜言ふべからず。壊れし壁、倒れし梁の交錯する間を縫ひ、釘に刺され硝子片に傷つき暫くにして瓦礫廃材の堆積より逃る。

 

しかし外界の情景、全く意表に出づ。壊滅せしは我十五病棟のみと信じたるに、一望の間、家屋尽く倒れ、草木皆描(くだ) <。東望すれば、広島城天守閣の雄姿も既に忽焉(こつえん) としてその影を没せり。案に違はず、火災随所に発し、遠く三滝、二葉の山々に亘る。我病棟の一部また火を発せり。井上婦長、山下看護婦、我姿を認めて急ぎ走り来りて、倶に共に生ありしを喜ぶ。皆満身創洟、鮮血にまみれ、看衣完膚(かんぷ)なきまでに裂く。山下看護婦は左眼の損傷甚だしく、 けだし失明は免るまじ。他の看護婦の姿を求むるも空しく、一同暗然たり。逃れ出でたる患者、又三々五々集り来る。この間にも、火勢はその強度と速度とを増し、四方より襲ひ来る。

 

一大旋風起り、火焔(かえん)、 煤煙(ばいえん)相乱れて渦を巻き、火粉、 紛々として頭上にそそぎ、熱気面を払ふ。倒壊家屋の下には、尚生存者多数あるものの如く、呻吟絶叫の声おびただしきも、土塊廃木の除去は少数の人力のよくなし得る所に非ず。加ふるに水道よりは一適の水も出ず万策尽く。火は愈々(いよいよ)近く全身炒らるるが如く、このままにては坐して死を待つのみ。屋下の生存者に心を残しつつ四面を囲饒(いによう)する猛火の一角に暫く活路を見出して、ー同避難を始む。途中、頗垣墜瓦に道を阻まれつつ辛うじて太田川川原に出づ。川原の上、避難者溢れる。斉しく道を北にとる。宛然三途川を渡る亡者の群もかくやと偲ばる。或は家族相呼び、伴侶相引き、相扶け、相抱き、背に負ふ。或は夢遊病者の如く、たたずみ、よろめく。或は狂人の如く、泣き、叫ぶ。或は吐血して倒れ伏しそのまま動かず。或は流に飲まんとて、水際にて力尽きて死するあり、或は地上に轍転反側(てんてんはんそく)し、葡匈(ほふく)し、鱒鋸(そんきょ)し、苦悶の状、千姿万態、白沙上血流れて死屍累々たり。

 

その酸鼻、その悲惨、我禿筆(とくひつ)のよく尽す所に非ず。都下一切を焼く劫火(こうか)の黒煙は天に沖(むな)し、陽光、ために色赤く、山河の景物、惨灌(さんたん)として、猶黄昏に入るがごとし。我は無我夢中にて、傷つき疲れたる身を牛歩の如く運び、戸坂(へさか)国民学校に辿り着けり。時既に午後なり。この時始めて臓腑を搾るるが如き烈しき悪心、嘔吐に襲はれたるも、吐血をみず、夜に入りて止む。校舎の内外には避難者満つ。幸にも命を全うせる軍医、期せずして五名集まる。皆隊を異にして一面識なし。各自、疲労困懲の身を冒して、軍官民の診療を始む。大部分は火傷にして、一部は外傷なり。強烈なる光に晒されし部分は髪焼け、皮棄(ただ)れ、肉露(あらわ)る。全身赤銅色に腫脹するもの多く、その貌状、眼を蔽(おお)はしむ。診療と称するも、診ありて療なし。継帯一巻、薬剤半錠すらなきを奈何(いかん)せん。

 

僅かに近郷より恵まれし食油にメリケン粉を混じて患部に塗布し水を与ふるに止るのみ。深更(しんこう)に至りて死する者数を知らず。多くは無睾(むこ) の民衆なり。ああ、干文(かんか)を操る者、また敵の干文に斃(たおれ)る。これ素より恨むことなし。されど戦士、非戦士を分たず、爆撃を加へて、長幼男女、無抵抗、無害の民衆を一挙に大量殺散の暴を敢て檀(ほしいまま)にす。残虐これに過ぐるものなく、冷酷非道、惨酷無残の所業、ここに極まる。夜、某軍医大尉日く、「これ独り、英米の罪に非ざるなり。戦の罪なり。史書を幡(ひもと) かば、古今東西、かかる例は枚挙するに遣(いとま) あらず。事遂にここに至る。日本敗るるの日もまた近きにあらん」と。満座憮然(まんざぶぜん) たり。・・・. . . . . . .

 

父は八月五日広島第二陸軍病院本院15号病棟階上の医官室で就寝しました。この医官室は爆心地の方向に直面した南向きでガラス張りの大窓がある部屋でした。父は八月六日の午前八時階下の処置室に降りて朝礼のため看護婦を集合させ整列が終わる頃、原爆が炸裂して看護婦十四名中十一名が亡くなりました。もし原爆炸裂が八時前であったなら階上に居た父は熱線、爆風と放射線で即死だったと考えられます。米国国立公文書館蔵から引用した写真で昭和二十年七月二十五日(原爆投下12日前) と八月八日(原爆投下後2 日目) に米軍が広島市街を撮影した航空写真が有ります(*16)(*17)。広島第二陸軍病院本院は爆心地から八百メートルの距離でしたが原爆投下後第15号病棟は既に廃墟になっています。

 

広島原爆戦災誌によると広島第二陸軍病院本院での被曝直前の在籍職員数と被爆死没者は次の通りです。

広島第二陸軍病院本院・在籍職員数(被爆死没者)

●将校
軍医12(6)
薬剤2(1)
主計2(1)
衛生4(3)
●下士官・兵170(135)
●看護婦80(63)
●軍属60(48)
総計330(257)

 

日記からは戸坂村に疎開した後の様子も分かりました。広島第二陸軍病院本院で被爆後、北方六キロ離れた戸坂村で救護にあたっていましたが、軍部から軍医は直ちに病院に帰って来るように伝令があり、夜間に広島市内に向かいました。市内に近づくにつれて火災はいよいよ烈しく崩れ落ちた家の中から、死体が燃えているのであろうか青い火が出て、さながらダンテの地獄絵図の様であったと。既に広島第二陸軍病院本院は全壊しており太田川畔のテント内での診察であったかと思いますが、父は主に軍人を診ていたようです。当然ながら白血球の減少の著しい患者も多くしかも薬剤は全く無く、バターにメリケン粉を混ぜて火傷に塗り、喉の乾いた患者に薬缶で水をすすぐのが唯一の治療であったとも記述してありました。ところが父も治療と残務整理を続けているうちに約二週間後身体の疲れがひどくなってきました。同僚に「僕の白血球も測ってくれないか」と測ってもらうと「気を悪うされるかも知れんが千五百しか・・・」ということで広島の北、向原の民家で治療することになりました。

 

治療と言っても安静にして体力を回復するしか方法は無いのですが、次第に症状もひどくなって起きられなくなってしまいました。微熱、皮下点状出血、脱毛等典型的な原爆症が生じました。家族が郷里の福山から出て来て銀メシを食べさせますが砂を噛むように感じて、これはもう駄目だと思ったようです。父は当時軍医少尉でしたが、上官の大尉に、「同じ死ぬなら生まれた家で・・・」と頼んで故郷に帰ることになりました。その道中も大変だった様です。汽車は満員で、しかし体がだるいので通路に横になり、松永駅に着くと祖父が自転車を借りて来て、それに乗せてもらい押して六キロの道を帰りました。父はこのまま死ぬかと一時は思ったようですが二年も経つと体力は次第に回復し、山羊の乳をしぼり、野菜づくりを手伝うことが出来るようになりました。

 

そこで生まれ育った家を改造して開業することとなったのは昭和二十二年のことでした。二年経つと隣りの村が無医村なので是非来てほしいという話が起きてきました。それではと、でかけ福山市熊野町での第二の開業を始めました。ここは周囲に山をめぐらし盆地になった素朴な村で、村人に信頼された楽しい時期であったと記述していました。その後昭和三十三年に大阪府豊中市に出て来て第三の開業を始めました。平成十七年脳梗塞を病みましたが九十歳まで現役の医師として患者を診てきました。しかし病状が悪化し私の病院に入院、家族に見守られながら九十一歳の生涯を終えました。私が平成十八年十月一日午前十時三十分死亡の診断書を書きました。原爆投下後自らに原爆症の症状が現れながらも懸命に被爆者の救護を行い永年に亘り患者を献身的に診療した医の亀鑑となる一医師がいたことを忘れないでほしいと思います。

 

 

 

(*1)
この写真には「昭和十九年五月中旬第八号病室中庭二於テ愛犬ヂョンヲ連レテ」との説明文が書いてありました。何故敵国語であった英語名で「ヂョン」と呼んでいたかは不明です。セパード犬ならドイツ語でハンスかペーターと呼称すると思うのですが!
【広島第一陸軍病院江波分院の八号病室中庭で撮影】

 

 

 

(*2)
戦前の官公立大学の医学部・医学科は九の帝国大学と七校の医科単科大学の計十六校しかありませんでした。父が京都府立医科大学予科三年の時の写真です。
【昭和十二年】

 

 

(*3)
昭和十六年春京都府立医科大学を卒業しました。

【昭和十六年三月】

 

 

 

(*4)
父は昭和十六年三月京都府立医科大学を卒業しました。明治三十九年に医師法が施行され、医師の免許資格を積極的に規定し、医師となるには一定の資格を有し内務大臣の免許を受けることとされました。その資格は帝国大学医学科又は官立・公立もしくは文部大臣の指定した私立医学専門学校の卒業者に限られました。昭和十六年四月二十八日に交付された医師免許証のコピーです。

 

 

 

(*5)
京都府伏見区にある京都第一赤十字病院に勤務していた頃の職員集合写真

 

 

 

(*6)
当時の内科医は現在の検査技師が行っている検査を殆ど全て行っていました。京都第一赤十字病院に於いて顕微鏡で検査を行う父

 

 

 

(*7)
出征を目睫の間に控えて京都市伏見区の自宅前で記念写真
【昭和十八年七月中旬】

 

 

 

(*8)
「江波分院兵舎見習士官室入口にて入隊以来始めての日直士官 こんな格好をするのが又嬉しいのだ」との記述があり。
【昭和十八年九月五日】

 

 

 

(*9)
広島第一陸軍病院江波分院の見取り図(昭和二十年二月当時)
【広島原爆戦災誌より引用】

 

 

 

(*10)
宮内大臣から「正八位に紋する」の指令を受けて陸軍少尉に任官されました。
【昭和二十年五月一日】

 

 

 

(*11)
陸軍少尉に任官を命じられ服装は三年式軍衣袴で桜花を背景に撮影
【昭和二十年四月九日】

 

 

 

(*12)
昭和十二年広島衛戌病院は広島第二陸軍病院本院に改称されました。改称前の広島衛戌病院の表門です。【廣島衛戌病院綸葉書より】

 

 

 

(*13)
広島陸軍病院第十三号病棟はこの建物の北方後方に位置する第十五号と造りは同じでした。父は被爆前日第十五号病棟階上の医官室で就寝しました。この葉書で医官室ば爆心地の方向に直面した南向きでガラス張りの大窓がある部屋と認められました。

【廣島衛戌病院綸葉書より】

 

 

 

(*14)
広島第二陸軍病院本院は爆心地から僅か八百メートルの距離で、広島城郭一帯の北西部に位置し太田川に隣接して建造されていました。父は昭和二十年八月六日15号病棟で被爆しました。

【広島原爆戦災誌より引用】

 

 

 

(*15)
広島第二陸軍病院の各室説明図です。第13号病棟も第15号病棟も造りは同じでした。父は第15号病棟階下の処置室に於いて朝礼の為に看護婦14名が整列を終えた頃、原爆炸裂により被曝しました。
【第13号(第15号)病棟階下の番号2の処置室に於いて被曝】

 

 

 

(*16)
昭和二十年七月二十五日の高度8500mに於ける広島市街の軍用施設、 米軍にて航空写真が撮られていました。 広島第二陸軍病院本院は太田川畔沿いの爆心地から北西800mの距離に位置していました。
【この米国国立公文書館所蔵の航空写真(5M335 27S)は国土交通省国土地理院 より購入し資料を掲載することの許可を得ています。】

 

 

 

(*17)
八月八日(原爆投下2日後)の廃墟と化した広島市街地「干文を操る者、又敵の干文に斃れる。これ素より恨むことなし。爆撃を加えて長幼男女、無抵抗、無害の民衆を一挙に大量殺歌の暴をほしいままにす。冷酷非道、惨酷無残の所業、ここに極まる。」某軍医大尉日く「これ独り英米の罪に非ざるなり戦いの罪なり」
【この米国国立公文書館蔵の航空写真(5M220 114W)は国土交通省国土地理院より購入し資料を掲載することの許可を得ています。】

 

令和4年8月6日

工藤恵康