Document参考資料
2018.08.06
その他
広島陸軍病院原爆慰霊会 対談2018
民医連さいたま:肥田舜太郎先生は、こちらの広島陸軍病院に勤めておられまして、8月6日は、少し離れたところに往診に行っておられたので直撃はされなかったのですが、こちらの病院は、爆心地に近いのでそこにおられた方が亡くなられたのです。肥田先生は、往診先でも、ものすごい爆風を感じたので、広島市内がすごい状態になっているのではないかと思って、戻って来ようとされました。広島で被爆された方々が、広島市内から逃げて来るのに遭遇しましたが、何とか川を下って行こうとしましたが、病院には行き着けませんでした。そこで往診先の村に戻って、そこに救護所を設置して、そこでたくさんの方の治療をされました。
岡崎:その戸坂村というのは、この川をずっと上った右手の方にあります。歩いたら1時間30分ぐらいかかります。
民医連さいたま:当時、ここまで戻ろうとされたのは、すごい大変なことだったと思います。
岡崎:橋も落ちていましたからね。病院は、このへんにあったのです。
民医連さいたま:病院関係の方ですか。
工藤:私は、父親が、軍医として、ここに勤務していました。ここは、爆心地から800m離れたところです。朝、8時15分に朝礼をしている時に被爆しました。うちの父親は、それから肥田先生と一緒に患者さんの救援に当たっていました。
岡崎:陸軍は、広島が出発地点で、ここが本拠地みたいなものなのです。
工藤:父が勤めていた当時は、衛戌病院と言っていました。それからだんだん第一とか第二に分かれていきました。ここは、第二病院で、第一病院は、爆心地から300m離れたところにありました。肥田先生は、第一陸軍病院に属しておられたのですが、たまたま戸坂村におられて、難を逃れられたのです。陸軍第一病院では、99%ぐらい亡くなられたのですが、第二は、それより亡くなった方は少なかったです。しかし、後で後遺症が出て、年数が経つにつれて、亡くなられました。肥田先生が、よく言っておられたのですが、一番恐いのは、内部被曝です。実際に肥田先生もそれで亡くなられるのを、たくさん見て来られました。内部被曝については、今、あまりはっきり言われていませんが、実際に先生は、経験されて来られました。
民医連さいたま:ありがとうございました。
黙祷 8時15分
民医連さいたま:第一陸軍病院は、別に慰霊碑がもう1つあるのですか。
工藤:碑は、ありません。私は、これが第一陸軍病院の門柱だと聞いています。もう片一方は、まだどこかに埋まっているらしいです。
別所:球場の下のへりに埋まっているのではないかと言われています。これしか残っていなくて。
岡崎:病院は、本当にここにあったのです。この土手から向こうにあったのです。
工藤:高層ビルが建つまでは、ここからよく広島城が見えていたのです。そこに写真がありますが、この川土手にバラック建ての野戦病院があって、河原は屍でいっぱいだった様です。
女性:あそこに碑の説明が書いてあるので、見て行かれるといいと思います。
民医連さいたま:ありがとうございます。
別所:こちらには、亡くなられた看護師さんや軍医さんたちのお名前があります。
民医連さいたま:こちらは、職員の方のお名前ですね。患者さんたちは、ないのですね。
岡崎:いわゆるお医者さんと看護師さんと職員の方だけしか書いていないです。患者さんは、書いていないです。
民医連さいたま:数が多すぎてですか。
工藤:数が多いというより、患者の名前がわかっていないのです。
岡崎:ここに書いてあるだけでも742名です。
民医連さいたま:病院としては、いつ無くなったのですか。
工藤:8月6日 瞬時に崩壊して、炊事場の煙突1本残して、全部無くなりました。記録に残っていました。
民医連さいたま:その後、ここで治療はされなかったのですね。
工藤:川沿いにバラックを建てて救護所はつくりましたが、治療らしい治療はできないので山口の柳井分院に行きました。他に被爆者は、江波分院や北方の戸坂国民学校に運ばれました。
民医連さいたま:ありがとうございました。
原発
岡崎:秘密なのでしょうけど、誰かが言わないといけませんよね。原発が再稼動すれば。
工藤:福島であの様な事故があって終息していないのに、オリンピック開こうとしているでしょう。政府は、甘いことを言っています。
岡崎:東京にも影響があると言いますよね。
工藤:東京というか福島で原発事故があり放射性物質が、世界中に散らばっています。放射線の元素には、番号があるのでどこに広がっているというのが、すぐにわかるのです。それで、今、世界中に放射性物質が広まった事を裏付けています。
岡崎:実際に隠すつもりだったわけだから。
工藤:何か証拠がないと動けない。
岡崎:今でも何キロかわからないけれど、住める状態にはなりませんね。
工藤:それを平気で、もう安全だから帰ってもいいと言っています。
岡崎:ある程度、水準を決めて、ここまでならいい、ここからはだめだといって出しているのでしょうけれど、それが政府寄りの数字なのでしょう。
工藤:そうです。それに反発すると研究の道を閉ざされます。
岡崎:それは、今でもなのですか。
工藤:元 京都大学の小出先生もそうです。
岡崎:それでも小出先生の子分はおられるのでしょう。小出先生は、もう辞められましたね。
工藤:定年で辞められました。でもあの年で講師止まりでした。
岡崎:講師止まりだったんだ。
工藤:大学の教授であってもおかしくない先生です。
岡崎:だけど、今頃の世の中だから、日本では、そのように民意を抑えられてるかもわからないけれど、ドイツなどは、抑えきれないのではないですか。
工藤:ドイツ人には、考える力があるのでね。政府が言ったら、それをみんな正しいと信じているのは、日本人だけですよ。ドイツ人は、もっと反対していますね。日本人は、反発しないから。みんな鵜吞みにして正しいと思っているから。
岡崎:ドイツでは、そういうのが自由に研究できているのですか。
工藤:やはり抑えられていますね。
岡崎:そういう文献はあるには、あるのですね。
工藤:あるにはあるけれど、だいぶん制限されています。
岡崎:そういう文献は、手に入るのですか。
工藤:どこか調べたら、手に入るでしょうね。
岡崎:先生もそういうのを買っているのですね。
工藤:まあ、一応はね。そこまで深く文献を取り寄せてやっているわけではないのですが、個人的に取り寄せて読んでいます。
岡崎:それは、もちろん原語ですよね。先生は、ドイツ語を勉強されていたのですよね。日本の長崎大学で、標本から未だに放射線が出ていたというのは、日本で公に公表されているのですか。
工藤:学会で公表されていますが、報道はされなくなりました。
岡崎:報道されなくなったということは、どこかがやはり圧力をかけているからでしょうか。
工藤:そう思います。やはり国が絡んでいる。
岡崎:その圧力がかかるというのは、誰に対して圧力がかかるのですか。
工藤:大学での研究者は出世できないシステムになっているのでしょう。
岡崎:それが、わかっていても公表したのですね。報道が抑えられたら、そのことをさらに研究しようという方が、少なくなりますね。
工藤:肥田先生も言っておられたけれど、大学で研究しようという人がいなくなります。
岡崎:そういうことをつつく団体は、いないのですか。
工藤:グリーンピースとかが、やっています。
岡崎:何かおかしいような。鈍い反発するような動きばかりしていて、正論ではないみたいな気がします。
工藤:原発に関しては、民間でも活動しています。
岡崎:肥田先生もいわゆるお金のバックがなかったのでしょうね。民医連みたいな団体は、たいした団体では、なかったのでしょうね。
工藤:のけものにされていましたね。
民医連 本部 韓国学生
全日本民医連:韓国からの平和大会に参加するメンバーなのですが、みんな肥田先生を学んで来ている人なのでここに来させてもらいました。
岡崎:さっきさいたまの人たちが来られていました。
全日本民医連:今日は、さいたまの民医連の人たちが来られるというのは、知っていました。もう帰られましたか。
岡崎:8時前後に来られました。泰先生はお元気ですか。
全日本民医連:はい、泰先生の近況は、事務局の方に伝えました。
岡崎:お元気ですか。
全日本民医連:はい、まだまだ現役で、働いておられます。所長になっていて、地域も回っているので、ほぼ毎日です。それ以外は、労働組合の産業医なので全国を回って、先生の健康をみていただいたりしています。
工藤:お忙しいとは思いますが、肥田泰先生には、来年も講演に来ていただけたらと思っています。
全日本民医連:僕は、毎月会うので、泰先生に来年は、身体を空けていただけないかということをお話しておきます。6日でよろしかったですか。以前、お伺いした時も、朝、こちらに来て昼に講演ということでしたね。そのようなイメージで先生にご相談をさせていただきます。
岡崎:こちらは、工藤先生です。
全日本民医連:工藤先生ですよね。僕も、肥田先生の報告書を頂いたのを見ています。
工藤:肥田先生は、毎年、ここに来られて、被爆者に対して慰霊しておられました。この場所には、広島陸軍病院というのがありました。広島陸軍病院は、第一と第二があり、第二陸軍病院がそのへんにありました。爆心地からだいたい800m離れていました。肥田先生が、おられた第一陸軍病院は、爆心地からだいたい300mのところにありました。8月6日8時15分に原爆が落ちましたので、その時に、肥田先生が、第一陸軍病院におられたら即死だったはずなのですが、肥田先生は、前日に近くの村の子どもさんが、具合が悪くて、たまたま6キロ離れた村におられたのです。第一陸軍病院におられたら、どうなられたか分かりません。助かった人は、3名だけでした。戸坂村というのは、ここから6キロぐらい離れたところにあります。この川を肥田先生は、こちらに向って来られたのですが、亡くなった方がたくさんおられるのを見て中心に入れなくて、途中で引き返されたのです。戸坂村に帰られて、患者さんを診られました。肥田先生の診られた経験を文献に残されています。先生は、昨年、亡くなれたのですが、その間に6000人ぐらいの人を診療しました。診療といっても、治療できないのですが、心のケアをされました。先生が、一番恐れていたのは、内部被曝です。内部被曝は、日本では認められいません。チェルノブイリは、ご存知だと思いますが、それの文献を調べると内部被曝があることは、確かなのです。将来、内部被曝した人が悪性の癌になっているのです。今回の福島でも同じことが起り得るのです。残念ながら、日本の国はこういうことに対しては公にしていません。そういうことは、起り得ないという周囲からの圧力もあります。残念ながら今日本人は、これを明らかにできません。韓国の事情はどうかわかりませんが、残念ながら日本は、今、こういう状況です。よく勉強したら、誰が正しいことを言っているのかよくわかるはずです。皆さん、先生方でしょうから科学的に見ると、誰が本当のことを言っているかすぐにわかるはずです。
岡崎:未だに肥田先生の影響力があるのですね。
岡崎:話は、ちょっと違うけれど、肥田先生は、原爆症のことをぶらぶら病と言っておられましたね。私は、広島の人間だけど、広島の人間は、ぶらぶら病という言葉は使わなかった。
工藤:原爆ぶらぶら病は、医学的には慢性疲労症候群と言っていますが、肥田舜太郎先生は、それを原爆ぶらぶら病と言いました。
岡崎:広島の人は、原爆症という言葉を使ったのかな。原爆に遭って、被害のある人は、原爆症でしょう。
工藤:原爆症といったら、いろいろな意味があるでしょう。例えば、ケロイドのできた人とか癌を患っている人とか、そういう人も含めて言っています。身体がだるいというのは、ぶらぶら病ですね。原爆症というのは、病名をたくさん含んでいます。
岡崎:ぶらぶら病という言葉は、広島は使わないよね。
工藤:肥田先生は、そう言われていましたね。
岡崎:私は、肥田先生に会う前に、ぶらぶら病という言葉を聞いたことがなかった。肥田先生は、よく「かったるい」と言われていましたね。原爆症の方が、普段は何ともないのに「かったるい」、広島の言葉でいうと「たいぎい」、力が出ないというのがあったのでしょうけれど、「かったるい」というのも広島ではあまり使う言葉ではないですよね。
工藤:本当のぶらぶら病というのは、身体が動かないというか、身体を動かすのが、ものすごくしんどくて、だるさが違うらしいですね。
岡崎:肥田先生と話をしていてた患者が座っておられなくて、寝てしまうということが書いてありましたが、それぐらいちゃんと座っていられないしんどいのですね。
工藤:肥田先生は、そういうだるさを知っていても、病名としては、つけられなかったのですが、たまたまアメリカに行って、原爆実験をした後の被爆した兵士たちが、身体がだるくして仕方がないという症状があることを知り、それが、向こうでは、慢性疲労症候群と言われていました。その研究をしている教授と肥田先生が、出会って、これが、ぶらぶら病との症状に一致するということがわかったのです。アメリカでは、実際にそういう兵隊がいたのです。アメリカでも原爆実験をしましたからね。兵隊に後遺症として残っている症状が同じなのです。
岡崎:その兵隊を使って実験をしたのは、いつの時点なのですか。
工藤:戦後です。
岡崎:戦後ですか。広島の後ですか。
工藤:戦争が終わった後は、冷戦時代があって、ソ連に対抗しないといけないので、兵隊に重装備をさせて、実際に原爆を落として兵隊を進撃させる実験をしたのです。広島の原爆資料館でそういうビデオを放映しています。1950年代です。
岡崎:1950年代というと1945年よりも5年以上後ですね。
工藤:泰先生が、言われたようにアメリカが、兵隊をブロック毎に立たせていたのも、後のことだと思います。
岡崎:それぐらい原爆の資料がなかったのですかね。
工藤:兵隊に立たせて、2キロ範囲とか、どこまでが安全かを調べたらしいです。
岡崎:その後に、また水爆もつくっていましたね。水爆は、いつでしたかね。
工藤:1950年代ですね。水爆実験でも日本のまぐろ漁船が被害を受けたのです。あれも有名になったのは、第五福竜丸で1人が亡くなったのですが、実際にその当時、まぐろ漁船は他にも1000隻ぐらいいました。1隻だけが被害を受けたように思われていますが、あとの1000隻は、全部、アメリカがお金を払って買収されました。あの時、ビキニ環礁の近くに住民がいて、そこで内部被曝した人がいます。アメリカ本土でもユタ州とかアラモに有名な岩があるのですが、そこで実験したのです。ハリウッドの映画俳優が次々に放射線の影響で癌にかかって亡くなっています。原爆実験場とは、かなり離れているのですが、風向きで全部、こちら風下に流れてくるような場所なのです。ジョン・ウェインとかスティーブマックイーンなどが亡くなっています。
岡崎:早死になのですか。
工藤:全部、癌で亡くなっています。
岡崎:実験した時の風が肺に入ったのですか。
工藤:それが、内部被曝です。実際に原爆に遭っているわけではなく、何百キロも離れたところにいたのですが、風向きで風下にいた人は、全部、埃を吸い込んで内部被曝したのです。
岡崎:実際には、直接被爆でも放射線は、来ているでしょうけれどね。
工藤:ガンマ線が、身体を突き抜けてしまうから身体の中にはほとんど残らないのです。それでも、熱で死んだり、爆風で死んだりする人が多いのですが、内部被曝は、粒子が肺とか体内に蓄積するのです。だから、長崎医大での標本は、70年以上もたっていますが、永久に放射線が出続けているのです。内部被曝を認めたくないのでしょうね。
岡崎:実際には、直接被爆の時にも放射線は、受けているのでしょう。それは、内部被曝を起こすぐらい悪さはしないのですか。
工藤:それは、出ていますが、それ以上の症状の方が強いので。
岡崎:無視というか。
工藤:原子爆弾では、まず中性子が出るのです。中性子でやられて、後は、高熱や爆風でやられます。初期の段階では、そういう被害が出ます。
岡崎:直接被爆ですね。
工藤:原爆が投下された数時間から数日たって市内に入った人が、それだけの人が原爆症になりました。
岡崎:先生には、どこかからクレームがかかるような話はありませんか。
工藤:あまり大きな声で言わないでくれという話は今のところないですね。
岡崎:あの人は、先生に反発したのですか。チェルノブイリはあまりひどくないという話をしたのですか。
工藤:チェルノブイリを支援する団体であったらしいのですが。
岡崎:どういうふうに支援するのですか。
工藤:チェルノブイリ医療支援をするようなことを言っていました。
岡崎:今、チェルノブイリは、コンクリートで固めていますが、それでも100年持つかどうかわからないのでしょう。
工藤:コンクリートをかぶせただけですから。
岡崎:100年たったらどうなるのですか。
工藤:老朽化してコンクリートに穴があいて、隙間から放射線が出てきます。
岡崎:隙間から放射線が出るのですね。
工藤:放射線には、半減期がありますが、完全に0になるまでには種別により違いますが何万年もかかります。国は福島原発はコントロールできたと言っていますが、海に流れていないとは、誰も言えないのです。将来のことを考えたら、ものすごく大事だと思います。
岡崎:我々は、チェルノブイリ原発事故をお手本にしないといけません。
工藤:広島でも内部被曝のことは言われています。何十キロ離れたところにいた人も白血病で亡くなっています。直接被爆したわけではないのだけど、後で中央部に入って来た人も被曝しています。
大阪よりの山下
別所:浦上にばらばらになった遺品が残っていれば、原爆ドームみたいにそこを中心に、みんなが祈りに来るようなことができたのに、きれいにしてしまったので、あれは世界遺産にも入らなかったです。
山下:そうですよね。新しいものでは、そうなりませんものね。
別所:長崎のことは、あまり知らなかったのですが。いつから広島に入っておられるのですか。
山下:一昨日からです。原水爆禁止世界大会に参加して、昨日は、被爆電車に孫と一緒に乗りました。そういうイベントがあるのです。最後の集まりがあるのですが、暑い中、歩かせたりしているので、少し疲れました。4時ぐらいの新幹線まで、時間があるのですが、この暑さだし近くでゆっくりできるところがあればと思っています。
岡崎:原水爆禁止世界大会には、何人ぐらい集まるのですか。
山下:今年は、5000人と言っていました。
岡崎:その方たちは、ずっと碑めぐりをされていました。
山下:私は、2004年からずっと来ているので、一番最初は、碑めぐりに参加しました。その時から、一緒に参加しながら、母の足跡をずっと辿り続けています。私は、いろいろ勘違いもあるので、宿舎も別所さんのお母さんと一緒だと思っていたのです。朝日新聞に出ていた爆心という本に、うちの母がいた班の宿舎があそこだと載っていたのです。中島本町の…別館に行っていました。何年かそこだと思っていたのです。鷹匠町というのは、あそこの別名みたいな感じなのだと思っていたのです。鷹匠町というのは、今の町名にはないのですが、去年、その宿舎のあったところに行こうと思って、ホテルを探したのですが、なかなか見つからなくて、そうしたらぽっと1つ、安くて空いていたのですよ。それは、本川町の小さなホテルでした。今日も泊まって来たのですが、外国人さんが、泊まるようなところです。そこに申し込んだら、そこが鷹匠町だったのです。だから、何か引き合わせてくれたような感じがしてオーナーさんと話をしたら、このあたりですよと言われました。もしかしたら、僕の家のあるあたりかもしれないですねと言われました。正確なところは、わからないですけどね。母の宿舎のあるあたりは、そのへんですね。夕べも、その近くの居酒屋さんでご飯を食べたて、いろいろ話をしました。
岡崎:爆心地に近いですね。
山下:近いです。宿舎にいたら母も命がなかったと思います。
別所:三滝の分院で。
山下:母は、三滝で被爆したので無事だったのです。そこの看護師さんは、全員、無事だったのです
別所:宿舎の方が亡くなっておられます。
山下:そこで寮母さんをしておられた仲のよかった方が亡くなられています。まだ10代の若い方です。
岡崎:鷹匠町なら即死でしょうね。
山下:即死だったみたいです。爆心地まで、もう本当に歩いてすぐなので、私たちが泊まるホテルとしては、すごく便利です。
岡崎:空鞘橋は、すぐのところの橋です。
別所:それと相生橋の中間ぐらいですかね。
岡崎:ここから最初の橋が、空鞘橋です。
山下:それより向こうです。
岡崎:相生橋に近い方ですね。
山下:方角はわかりませんかと聞かれたのですが、私はわからなくて、もう一度、「きのこ雲」をじっくり読んでみます。西村婦長さんが、最初のころに宿舎の建物のこととか書いておられるところがありました。もう一回、読み直してみたいと思います。
別所:赤十字に資料を取り寄せるお願いをされたのですか。
山下:していません。
別所:あれを本部の方にすると赤十字の全部の資料の中から、「私の母の班の記録」みたいなのを全部、コピーしてくれますよ。
山下:そうなのですか。それは、どこに問い合わせたらいいのですか。
別所:メールでお知らせしましょう。家族でしたら、最初に召集されてからの記録をもらうことができる可能性が高いです。
山下:これは、資料館に行った時に、相生橋の昔の写真が展示されていて、鷹匠町は、このへんだなと思いました。古い街並みがあって、このへんかなと思いました。今は、道路があるけれど、昔は、川からすぐに家があるような感じでしたよね。だから、この当りの家かなと思うのです。こういうのがあって良かったと思いました。私の母の若い時の写真を持って来ました。これが、従軍看護婦です。ちょっと凛々しくってかっこいいでしょう。叔母さんが、まだ一人生きているのですが、母は大人しかったそうですが、帰って来た時には、家族は死んだとばかり思っていたので、すごくかっこよかったと妹だった叔母さんが言っていました。「帰って参りました。」と敬礼しながら、帰って来たそうです。そういうのが記憶に残っているそうです。
別所:赤十字から、こういう資料が残っていればくれるのです。
山下:これは、赤十字まで行かないといけないのですか。
別所:たぶん、大丈夫だと思います。
山下:自宅には、母のそういう写真がいっぱい残っているのは、知っているのですが、弟が姉ちゃんに渡したら、どこに出すかわからないということで、くれないのです。他人には、見せたくないみたいな感じです。田舎に住んでいるので、まだ、被爆者だというのを公表するのは、いやだと言うのです。
別所:赤十字の本社に電話すれば、取り次いでくれると思います。
山下:東京にあるのですか。調べてみます。
別所:ちょっと面倒なのですが、戸籍とか親子関係を証明するものが必要です。個人情報のことがあって、手続きがちょっと面倒ですが、聞いてみてください。
山下:そこで一度、聞いてみて何が必要なのか教えてもらえばいいですね。
別所:そこは、お孫さんの夏休みの自由研究などで調べに来る方もけっこういると聞いていますので、たぶん、開示してもらえると思います。赤十字は、こういうのをすごく残しているのです。恐ろしいほど残していますから、聞いてみたらいいと思います。
山下:別所さんから、連絡をもらって本当によかったです。
別所:私もちょうど母のことを調べているところでしたから。「きのこ雲」を読んで、あそこに住んでいたことを知った時には、びっくりしました。
山下:本当にびっくりしました。その後、三滝病院におじいさんが、入院しておられた方から連絡をもらったのです。いろいろなつながりが出てきました。
別所:病院船にも乗っておられて、それに肥田先生も乗っておられたそうです。
山下:そうなのです。私も去年、初めて知ったのです。肥田先生のこともあまり知らなくて、すごく立派な先生だったことをその後で本を読んで知りました。もう少し早く聞いていれば、お会いできたのにと思います。母のこともお会いできたら、同じ病院船に乗っていたら、覚えておられたかもしれませんよね。
別所:面白いですよ。夜は、肥田先生が、怪談をしてくれたみたいな文章が書いてあるのですよ。
山下:看護学校の校長をしている人がお友だちにいるのですが、肥田先生のことを言うと、知っておられて「山下さん、知らなかったの?」と言われました。本当に早く知っていたらと思います。その方も肥田先生が、立派な先生だということは、本もよく読んで知っておられました。うちの母が、病院船で一緒だったそうですと話したら、それもまたびっくりしておられました。
別所:肥田先生は、生き方もすごいですよ。何年か前にここに来られました。工藤先生は、お父さんがここで軍医をされていて被爆されたのですが、そのまま被爆者の看護をされています。
工藤:4病棟だけがコンクリート建てだったのです。残りは、バラック建てでした。たまたま朝礼をしている時に被爆したのですが、コンクリート病棟の倒壊により父は下敷きになりました。かろうじてガレキの中から這い出て、戸坂村で肥田先生と救援活動をしていました。
別所:山下さんのお母様は、三滝の分院におられて、こちらの救護所にも何日かおられたそうです。
山下:その時の母の手記を見たら8月9日にあの救護所に来て3日間、この救護所で救護にあたったというのを書いていました。あの写真の時にいたのだろうなと思います。
別所:うちの母は、7日から5日間、ここに来ていたので、お会いしていたかもしれないですよね。
山下:うちの母が、ここから三滝分院に行ったのが昭和19年11月で、転籍になっているのです。それまでは、こちらの病院にいたのです。
工藤:父は、もともと江波にいたのですが、昭和20年4月にこちらに配属になったと言っていました。昭和20年4月以降です。
山下:それでは、病院には、一緒にいたことはないですね。
別所:うちの母は、19年の10月から4月までで、みんな微妙なところですね。
工藤:残念ながら、陸軍病院で当時、救援活動をしていた写真は、あの写真ともう1つ内面が写ったもので顔が真っ白になっている写真しかないのです。戦前のカルテもあまりないですね。
山下:病院がつぶれた写真がありました。去年、その写真集が出版されたので、すぐに買ったのです。
別所:何の写真集ですか。
山下:「ひろしま」に乗っていました。
別所:調べるところが、なかなかなくてね。皆さん、亡くなられる方も多いから。
山下:三滝から井原国民学校に病院疎開で、そちらの方で救護活動をしているのですね。そこの小学校に問い合わせたら、小学校はもう古い小学校から新しい小学校に移転されて、当時の資料はまったくないですと言われました。そこに郷土史研究家という方がおられて、その方を紹介してもらいました。その郷土史研究家の方のおじいさんが、昔、造り酒屋をされていて、その国民学校の昔の絵やゆかりのお寺を教えて下さいました。お元気だったらもう少し詳しくわかったと思います。
別所:私が、山下さんのブログを見せてもらって、そういう件がここ数年です。それまでは、どうしてもお会いする術がなかったので、そういう意味では最近じゃないと調べられなかったことも多かったと思います。だけど、もっとはやくわかっていればと思いますよね。
山下:私自身も行動を起したのが4年前です。母の十三回忌の時に思ったのです。
工藤:私も、きっかけとなったのは、父親が亡くなったことです。父親が亡くなって初めて、やらないといけないと思いました。もう十三回忌もすみましたが。
山下:みんなそんな感じですね。
工藤:生きている間に聞いていればと思います。
山下:本当に悔やまれるのは、生きている時に、何でもう少し聞いておかなかったのかということです。
別所:何で話を聞かなかったかですよね。
山下:私もまだ子育てがあって、仕事もずっと続けているので、実家に帰っても、そこまで気持ちが行きませんでした。被爆のことも、母が元気だった時には、敢えてそんなことを聞こうともしませんでした。
別所:うちの母も、最後まで、「何でそんなことを今になって聞く?」みたいな感じでしたので、あまり聞けませんでした。
山下:生きている時に日本全国、けっこう旅行しているのですが、広島だけは行っていなかったですね。広島には、なかなか足を向けられなかったのかなと思います。母が1回は、広島に行って来たいと言うのを聞いたのだけど、結局、広島には行っていないのです。行かずに亡くなっているので、これは、私が行かないといけないと思いました。そういうのを十三回忌の時に思ったのです。
工藤:お住まいは、どちらなのですか。
山下:大阪です。母は、淡路島です。淡路島から志願して行ったというのを聞いています。娘も孫も志願という意味すらわかりません。淡路島の家の近くの病院で働いていたのです。それで、わざわざ広島に行っているので、何でかなというのは、わからないようです。
別所:お生まれは、何年ですか。
山下:大正10年です。
別所:うちの母より5歳ぐらい上だから、たぶん、その頃は、赤十字の看護師さんは、憧れの職業だったし、国のためにという使命感があっただろうと思います。うちの母のころになると赤十字に入ったのももう無理やり入れられてという感じだったようです。もうたくさん看護師さんを増やさないといけなくなっていました。本人的には、いやいや入ったと話していました。そうしたら繰上げ卒業させられて広島に派遣させられたので、自ら行ったという気持ちは、まったくないと言っていました。
山下:憧れというのは、私の友だちのお母さんが、赤十字の看護師さんに憧れていたけれど、戦争が終わって、それどころではなくなったという話をしておられました。やはり、憧れていたのでしょうか。
別所:婦長クラスになったら、軍隊の偉い人と対等に話せるぐらい身分や給料などの待遇だったようです。勝間さんも言っていたけれど、あの頃スカートをはいていられたのは、赤十字の看護師さんたちだけだったからということです。あの頃の働く女性のイメージで、特に戦争が始まる前は、婦長さんをやっていた方たちは、かなりプライドが高い方が多かったようです。毅然としていて、昔だと人数も少なかったし、英語を習ったりして、かなり生活も自立しているイメージがあったのだと思います。戦争の終わりの頃は、そうでもなかったようですが、ちょっと前の年上の方たちの方がそうだったと思います。
山下:母が看護師になったきっかけですが、母は周りの人たちに聞いたら小さな頃は、大人しくて物静かでお茶やお花の先生になりたかったそうです。子どもの時に一番仲のよかったお友だちが、突然、亡くなったそうなのです。それで、こんな悲しい思いをするのは、いやなので、私は、子どもたちが死なないように看護師になると言ったそうです。使命感の強い人だったのかなと思います。
工藤:今、「この世界の片すみに」というドラマをやっていますね。見ておられますか。
山下:映画は、12月にまたあるそうです。昨日は、見れなかったですが、昨日もやっていたのですよね。
別所:中島本町あたりが出ていましたね。
山下:中島本町も当時は、すごく賑やかな通りだったのですね。このすぐ近くですね。
別所:今、やっているのに、何の協力もしていないのですが、写真を差し上げたらエンドロールに母の名前を載せてもらっています。クラウドファンディングでお金をみんなで集めてやっているのですが、それとは別に本編に名前が入っています。
工藤:ドラマは、毎週見ています。
別所:映画とドラマは、まったく別物ですね。協力関係はないのにドラマができて、そこがちょっとわかりません。ある意味、ちょっと勝手にという話みたいです。ドラマの最後に、スペシャルサンクス制作委員会となっているのですが、映画の方は、それを載せることに関してまったく何も聞いていないし、何も関与はしていないということです。いろいろあるのでしょうね。
田中:別所さんのお名前が、クラウドファンディングの方ではなく、本式のエンドロールに載っているということですね。
別所:そうです。
田中:今度、見てみます。協力してくれた呉とか中島本町の協力者の下の方に載っているので見て下さい。
田中:僕は、岡山の田中の息子です。
別所:お父様は、お元気ですか。
田中:はい。今日は、仕事の都合で来られませんでした。
別所:ちょっと長くお会いしていないので、お会いしたいとお伝え下さい。
田中:わかりました。来年は、来るように伝えます。
別所:でも毎年、代わりに来られて、偉いですね。もう就職されているのですよね。
田中:はい、今年から社会人です。
山下:何をやっておられるのですか。
田中:去年まで大学生で、小学校の頃から放送部でした。大学でも放送部で、一昨年、ここのことを題材にして、番組をつくったりしていました。
別所:どういうご関係でしたか。
田中:曾お婆さんの弟が、ここで軍医として少佐をやっていたということです。ここに来る前に出勤途中で被爆して13日に亡くなられたそうです。
山下:直接、ご存知ではないのですね。まだ生まれていないものね。
別所:おじい様が、曾お婆さんのお子様なのですね。
田中:祖母の叔父に当たります。
別所:肥田先生とご一緒だったのですね。
田中:ただ、性格があまり良くなかったというか、非常に厳しかったようで、特に肥田先生は、部下に当たられる人で、さらに後任者だったので、シャーレー1つに1つの菌を入れるのですが、そのシャーレーを2つ使ったら、もったいないからと1つのシャーレーを2つに割って使うようにと無茶苦茶を言っていたとかいう話を聞きました。そういう話ばかり出てくるので、おそらくあまり好かれていなかったのだろうなという気がします。
山下:お名前は何と言われますか。
田中:田中です。
別所:おじいさんのお名前は?
田中:皿井です。
別所:お子さん、偉いですね。この歳だと待っているのもなかなか辛いから。
山下:曾おばあちゃんのこと知りたいと言っているので。それでは、またお会いしましょう。
別所:私もそろそろ失礼します。工藤先生、ありがとうございます。
工藤:別所さんも山下さんもよく来て下さいますね。
田中:山下さんは、2014年からと言っておられました。
岡崎:何県から来られたと言われていましたか。
田中:大阪から来られたと言っておられました。昨日は、原水爆禁止大会で、今日がここという感じだったのでしょうね。
工藤:原水爆禁止大会は、どこに会場があるのですかね。大きな会場なのですかね。
田中:一昨日が、グリーンアリーナで、昨日のぶんは、各会場と書いてあるので、よくわからないです。
岡崎:いろいろな会場があったのでしょうね。グリーンアリーナというのは、基町の体育館ですか。
田中:はい。
工藤:今の岡山の方は、どういう名前ですか。
田中:山下さんです。
戦争
工藤:原発を推進しているところがあって、日本政府も同じように、それに追随しているわけですから。内部被曝の問題は、日本では出ません。
岡崎:肥田先生も力が強かったけれど、押し倒されて、なかなかそこまで。
工藤:広島と福島、福島とチェルノブイリ、つい最近なので一番、参考になるはずです。同じようなことが起っているわけだから。
岡崎:原発を再稼動していいのかどうか、新しい原発をつくっていいのかどうかということは、国民の関心事でしょうけれど、そのへんがうやむやにされていますね。
工藤:それは、皆さんが、恐さを知らないからです。
岡崎:今の平和な世の中においてもアメリカが原発を持ちたいがために原爆はひどいものではないということを言っている。
工藤:すべてがそうですね。
岡崎:戦争というのは、権力者が実権を握っているから、正しいことが正しいのではなくて、権力者が思う方向に行こうと思うので、発言もできないし、発言も抑えられる。それが、戦争というもので、それが世界を牛耳っている人のやり方ですから、そういうことでいいのですかということは、言い続けないといけない。内部被曝のことを知った我々にしてみたら、黙っておくわけにはいきませんね。肥田先生が、やり始めたことを誰かが、引き継がないといけない。私らが力不足で、あまり動きが取れませんね。
工藤:肥田先生にしてもあれだけ精力的にやっておられたけれど、裁判にも勝ったりしておられたけれど、先生の言う通りになった。
岡崎:でも無駄ではないからね。勝っている部分もあるのだから。まかり通る世の中だからね。でも日本人は、誰もが政治的に統制されていると思っていないのではないか。日本は、何でも言える正義の国とほとんどの人が思っているのではないか。
工藤:日本は、報道の自由度ランキングが、世界で67番目らしいですよ。
岡崎:そんなに悪いのですか。
田中:あまり良くはないです。
岡崎:それぐらい統制されているのですか。
田中:統制というかお上が言うことが、そのままというのが強いのだと僕は思います。
工藤:昔は、5位から10位ぐらいでしたが、急に原発の事故以来落ちてきて、世界でも信用されなくなっています。外国の人が、そういうのをよく知っています。考えてみれば、北朝鮮より悪いです。そこまではいかないかもしれませんが。
田中:報道でNHKでも7時のニュースの話をするかNHKスペシャルの話をするかでだいぶん変わってくるのですが、普通のニュースに関しては、けっこう国寄りなのではないかと思います。ドキュメンタリーは、国に寄らないというか、むしろ国に楯突くようなことをやってはいますけれど、ニュース的な報道ということになると、どうしても国寄りになるかなと思います。
岡崎:若い人は、NHKはどう思っているのですか。
田中:僕は、ここ2年ぐらいの体制に関しては、前よりは、若干ましになったかなと思っています。逆に言えば、それまでの3~4年ぐらい前がひどかったと思います。ただ、僕ら、放送部などの活動をしている人間は、ニュースだけでなく、ドキュメンタリーも気をつけて見ています。ドキュメンタリーに関しては、あまりぶれていないかなと思います。
岡崎:年寄りは、日本はいい国だと思っているし、NHKは間違いないことを放送していると思っていると思います。
田中:僕個人の感覚としては、まったく間違っていないとは、いえないだろうなぐらいの感覚です。
工藤:年金や医療制度にしても、今の年寄りは、日本にかなり不満があると思いますよ。満足はしていないと思いますよ。
岡崎:ある程度、民意をつかんでおかないと消費税も10%にできません。以前よりは、国もお金がたくさんかかり出しているのも事実ですね。うちの家内は、ニュース番組の古館さんが嫌いでした。あの人の考え方が好きではないと言っていました。
工藤:朝日テレビの久米さんの後でしょう。
岡崎:朝日を擁護していました。朝日が、だいたいおかしいのですよね。
工藤:右よりの人から言わせたら、平気であったかのように書きましょうから。最近は、戦争のことは、あまり言わなくなりましたね。南京事件のこととか、昔は、ある程度、報道したでしょうけれど。
岡崎:テレビよりも新聞の方が、怪しいのでしょうね。
田中:どうなのでしょうね。うちは、前は、朝日をとっていたのですが、最近、とるのをやめてしまったので、何を書いているのかよく把握していなくて。一時に比べて、叩かれなくなったということは、一時ほどのことはなくなったということでしょうかね。
工藤:NHKとかサンケイとか朝日とかいっぱい来るでしょう。
岡崎:たくさん来ていた時もあった。
工藤:原発以降は、ぴったり来なくなった。そういうのが、左右しているのかなと思って。
岡崎:福島で制限されたのではないかと思えるふしは、ありましたね。だいたい政府が、菅さんが、滅茶苦茶を言っているのだから。菅さんがよくわかっていなかったのだからね。
工藤:東工大を出ているのでしょう。にもかかわらず、あまり知っていなかったでしょう。
岡崎:知識がない人が、判断してはいけないですよね。
工藤:理科系 特に医学の知識がない人が、政治をやっているのだから横暴です。内部被曝が、恐い恐いと言ってもわかるわけがない。
看護婦の母が昨年無くなった男性
原発は放射能の最終処分方法。まだ確立されていない。中電は上関 作る前から莫大 町に寄付している。このコスト 単価に入ってない。稼働したら税金が町に入る、何年かのち定期検査で止まる、税金が減る。・何年か後、補修工事で止まる。町は税金が減ると困るので、2号機を作る。
電気消費量 テレビ 8年前より29% エアコン 10年前より 7% 冷蔵庫 9年前より7% LED電球にすると85%減っている。2011年発生した東日本大震災以後電力需要は減っている。